泣いた赤鬼

ひろすけの部屋

昭和46年5月25日、広介先生を田園調布までお迎えに行って、子どもたちと78歳の誕生日をお祝い
しました。前の晩に先生は、『むく鳥のゆめ』の原稿を午前1時までかかって清書なさったそうです。
その原稿が開園のお祝いでした。だから『むくどり保育園』です。原稿はいま第2保育園にあります。


    強羅荘にて
 戦前、強羅荘の土地は、元大蔵大臣結城豊太郎の別荘だった。戦後の財閥解体で昭和二十二年の春に父の所有になった。向いは岩崎財閥の別荘。南隣の林は、政界の怪人楢橋渡の所有。函嶺白百合女学園の校舎が東斜面下にあり、北隣は白百合の学生寮。少し先の路地を入ると斎藤茂吉山荘があった。大文字山を正面に望む五百余坪の谷川のある庭が、父の自慢だった。
 昭和三十三年三月十三日の夜、姉の知らせで私は強羅荘に来ていた。
 私は、日本児童文芸家協会理事一行の宴席で、得意の口演童話を演じようと待ち構えていたのだ。それも「泣いた赤鬼」を当の作者の前で。一行は、浜田広介、福田清人、白木茂、中沢径夫、二反長半、勝承夫、宮脇紀雄、土家由岐雄、筒井敏雄、秋月桂太、村岡花子、城夏子理事と、竹内勝子事務局員の面々だった。思い切ったことをする割には、時に私は、裏腹な行為をしてしまう。いざ話す段になって、演題を大人向けの怪談落語「青山まで」に替えてしまった。それでも浜田先生は、私の熱演に応えて十八番のドジョウすくいを披露された。
 翌朝、最寄りの強羅公園までお供した。公園に入ったところで私の履いていた下駄の前鼻緒が切れた。私はここで別れるのが潮時かと戻ろうとすると、先生がしやがみこんで黒皮のカバンを開けて何かを探していた。先生が捜し当てたのは日本手拭だった。先生は、手拭を切りさいておっしゃった。
「きみ、鼻緒をすげられますか。」
 一時間後、私は公園下のホームで、早雲山行きのケーブルカーを見送った。私はホームに直立し、動き出した車窓に向かって目礼した。手前の窓から浜田先生の顔が覗いた。先生は窓から乗り出すようにして手を振った。私も背伸びして手を振って応えた。ケーブルカーは、間もなく次の公園上駅に停車した。急坂だが軌道は直線だから、まだ先生の姿が見える。私は、私の立つホームに白百合学園の女生徒が四、五人上って来たのに気がついて、少々照れ臭くなっていた。ケーブルの車体は見えるが、顔は既に見分けが付かない。だが、先生の手は振られていた。私は周囲を見ないようにして、ただひたすら手を振り続けた。間もなく下りのケーブルカーと交換した。上りの車体は見えなくなった。
  それでも私は右手を上げたまま、しばらくそのままホームにいた。
 数年後の秋、紅葉に埋まる強羅荘の茶室で、私は先生にこんな色紙を書いて頂いた。
「泣いた赤おに、青おには箱根の山にいるそうな」
 先生は、以前から私が『青鬼』のようになりたいと考えていたことをご存じだったのだ。

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