出 奔(しゅっぽん)

 富士五湖の一つ本栖湖から西へ二里の山あいに、

 甲斐の国西八代郡東川内領丸畑という部落がある。
 花ズオウの咲く春の朝だった。
 部落では、どの家も朝飯の支度に起きだす時刻である。  まだ道にも畑にも、人影は見えない。深い谷間を流れる川も朝もやに隠れて、瀬音だけが聞こえていた。
 その時、半円の丘の上に、一人の少年があらわれた。
 年の頃は十三、四。洗いざらしの木綿の野良着を着て、 新しいわらじを履いている。丸顔で、目は切れ長、鼻は坐って口はへの字。どことなく憎めない顔だちである。
 少年は、丘の上から、まだ雪におおわれている山々を見た。
 目の下に、半円の丘の斜面にへばりつくようにかやぶきの農家が、 数戸寄りそうように建っていた。どの家からも、煙が朝焼けの空に立ち昇っていた。 その煙に向かって何かつぶやくと、少年はくるりと背を向けて斜面を駈け下りていった。
 四時間後、少年は市川大門の町を歩いていた。
 黒沢河岸に駿河からの上り船が着いたのか、 それと
も下るのか、市川の町は活気づいていた。少年は富士
川を見るのは初めてだった。 ここから船で下れば、
駿河の国岩淵まで一眠りしている間に着く。そのまま
駿河湾に出て、江戸へも船で行けた。 しかし、富士
川も初めての山ザルがどうして船に潜り込めようか。市川から甲府まで二里半、急げば甲府へ昼飯時に着けた。 少年はひたすら歩いた。

 少年は、途中で拾ったのか菅笠をかぶり、背に風呂敷包みはすに負って、 裾を高々とからげていた。彼は、江戸表へ出る気だった。出奔(しゅっぽん)()である。 当時、そんな若者は珍しくなかった。
 甲府から江戸までは三十里。
 甲州街道は五街道の一つで、当時は甲州道中と呼んだ。時は享保十六年(1731)、 江戸表では八代将軍吉宗が、大岡越前守忠相と組んで幕政改革に張り切っていた。 甲州も、柳沢吉里が大和郡山へ移封され、幕府直轄の天領になっていた。
 春の日没は早い。少年が笹子峠にかかった時には、今まさに日は、 赤石岳の肩にかくれる寸前だった。少年は健脚だった。だが、峠道で夜になってはにっちもさっちもいかなかった。 野宿することにした。左手の林の中に大杉がそびえていた。根もとに大きな空洞がある。
「なんだ。伊藤の六兵衛どんの次男坊じゃないか。」
 うろの中で、焚火にあたっていた商家の手代風の男が言った。
「おれだよ。長塩部落の杉平だよ。」
隣村の長塩部落に天子ケ岳山中で採れる薬草を、江戸の薬種問屋へ出荷している家があった。 杉平は、その薬種問屋に奉公人で、年に何度か江戸と長塩を往復していたのである。
 うろの中に、中年の杉平のほかに木綿の単衣を着た少女がいた。 娘は膝を抱いて、焚火を見ていた。
「この木は、富士の巻狩りで源頼朝公の放たれた矢が刺さったという大した木さ。  矢立ての杉という名まである。おれみたいな旅人が入り込んで焚火をするので、あんな上まで空洞になってしまったんだ。 それにしても、いいところで会ったよ。女連れだからな。」
 男は、少年に何もきかなかった。尋ねなくてもわかっていた。 だいいち「大岡越前」とか「目安箱」とか「養成所」とか、江戸の噂を流して、山間の部落の若者の目を江戸へ向けた張本人は、 この薬種問屋の手代杉平だった。 もともと利発で、頑健で、農家の次男坊の少年の心が、だれよりも江戸表へ動いたとしても不思議はなかった。 その上この子の先祖は、伊豆の国伊東の庄の押領使という話だ。押領使といえば、一軍の将であった。
「この娘は、和奈場の伊六の末娘さ。公方様が名君に代わっても、水呑み百姓の暮らしは同じだ。」
 少女は、その時初めて少年を見た。焚火の明かりにふくよかな少女の頬が、赤く染まっていた。 その頬に浮かんだ不思議な微笑は、これまでに少年の出会ったことのないものだった。
少年は、焚火の前に坐って、少女に即席でつくってもらった蕎麦がき
を食べた。蕎麦粉を竹筒の水でといただけの物だったが、少年は、
早く食べるのが惜しいと思ったほど美味に感じた。
その時、少年は、数えで十四歳の春であった。


 丸顔でどことなく憎めない顔だちの少年は、杉平の紹介もあったが江戸
に入るとすぐに奉公先を見つけた。次の年は、西国一帯に蝗(いなご)の害
があって、大飢饉になり、その翌年は、江戸でも「享保の打ち壊し」事件が
起こった。一、二年、出奔が遅れたら、奉公先などなかっただろう。

                 帰 郷


 元文二年(1737)秋、古関村が、市川大門の役所から土木工事の検分を受けることになった。 市川役所が正式に代官のおかれる陣屋になったのは、更に後のことだが、 その時の主席役人は小宮山杢之進という水戸の人である。 小宮山は、赴任した時に江戸から連れてきた青年に、 古関村の検分役を命じた。 まだ青年は二十歳そこそこだったが、剣のすじもよく見どころのある若者だった。
 その朝、検分役は、一人の従者を伴って籠に乗ってやってきた。
 古関村の人々は、名主以下打ちそろって村境まで迎えに出た。 村境からこっちは、籠かきも村人が務めるしきたりであった。 検分役は、簾を上げて名主一同のあいさつにうなずき、いかにも人のよさそうな顔に微笑を浮かべて村人たちを見た。 どこかで見たような顔だと、青年武士を見て村人たちみんなが思ったが、だれも思い出せなかった。
 その時、籠かき役に選ばれていた農夫が二人、籠のそばにきて彼に頭を下げた。
 その片方の初老の農夫を見て、青年の顔が一瞬引きつるように緊張した。彼は、すぐに従者を呼んで言った。
「あの者は、すこし年を取りすぎているようだ。籠かきの役は免除させなさい。 そして、むこう三日間、労役を免じて休養を取らせるように。」
 従者は、青年武士が、日頃から人情に厚い役人だと知っていたので、その旨をすぐに名主に伝えた。 初老の農夫は、丸畑の伊藤六兵衛であった。 その夜、青年武士は、宿舎の名主屋敷をひそかにぬけ出して、丸畑の崖道を登り、向川の伊藤家を訪れた。
 すでに四つ半(23時)だったが、伊藤の家には明かりがともっていた。
「顔を見ただけでは、わからなかたがの。名主様から、おまえの言葉を聞かされて、すぐに気がついたがの」
 兄の甚五右衛門も、弟の治左衛門も、起きて待っていた。母は、目をみはったまま、しばらく言葉も出なかった。 十四歳の少年が、六年の歳月を一とびに越えて、二十歳のたくましい青年に成長して現れたのである。 言葉にならないのは無理もない。
「元気そうだね」
 母は、やっとそれだけ言った。
 青年は、居ずまいを正すと、両親にあらためて家出の罪を詫びた。 そして、懐中から金子が入った包みを出し、再会を約して、夜明けを待たずに名主の家に戻って行った。
翌朝、早立ちで検分役一行は、古関村を去った。     (次頁へ続く)

木喰五行伝

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笹子峠矢立の杉

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