ルルという鹿の話
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       (一)

はじめから話さなくちゃならないの。つらいなあ。でも、話そう。きみ、アナンさんて知ってるだろ。おシャカさまのお弟子の、ほれ、いちばんちびっこでさ。ちょこんといつも坐っている。       あのアナンさんさ。わからないかい。そうかあ。きみ、まだ、はじめてなんだねえ。この話を聞くの。それじゃ、もっと、
はじまりから話そうね。あのガンジスの流れで水浴びをしてたところからね。
 おシャカさまは、いつでもそうだったけれど、たいていにこにこなさっていた。
 アナンさんが、ちびっこのお弟子のアナンさんが、
「ねえ、おシャカさま。水は、なんだってキラキラするのですか。」
と、あまえて聞いても笑っていた。
「それは、アナン。ひかりをね。ちゃんとこころに受けるからだよ。」
 ちょっぴり、むずかしかったなあ。わからなかった。アナンさんのちびっこ。
「水はね。ひかりがすきなんだよ。うれしいんだ。だから、ひかるんだ。」
 これなら、わかった。アナンさんも、にこっとした。
「ねえ、おシャカさま。みんなで水浴びに行きましょうよ。」
 アナンさんはね。キラキラのひかりの、ひかりの流れに、とっても入ってみたかったんだ。
「ねえ、水浴びをしましょうよ。」
 もちろん、流れはガンジス川だ。おシャカさまは、ほかのお弟子たちにも言ったねえ。
「みんなも、ガンジスの水浴び、すきかな。」
 シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ。おかしな
名前だけど、みんなおシャカさまのお弟子たちだ。
「シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ。みんな、
すきかな。」
「すきですとも。」
 それでオッケイさ。
 お日さまは、かんかん照ってたし、お弟子たちの青ぼうずはちきちきやけたしね。
「すきですとも。」
 あつい日の水浴び、きみだって、すきだろ。
 シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、みんな、流れに入ったなあ。
 ところでね、ついこないだ聞いたことだけど、インドでは、いまでも、川やみずうみにまいにち水浴びに行くそうだ。それも、着物を着たまま、ざぶざぶ水に入るそうだ。 そんなインドのしゅうかんのとおりに、アナンさんもおシャカさまも、お弟子たちも、着物のままざぶざぶ流れに入った。インド人は、ハダカがきらいなんだな。それでもインドはあついばかりか空気もからからなので、川から上がって五分もすると、すっかりもとどおりにかわくそうだ。それほど空気がからからなんだね。
「ねえ、おシャカさま。何百年もむかしのひとたちも、こうして水浴びをしたのですか。」
 かがみがこまかい波になって、波がこまかいかがみになって、お日さまをちかちかうつしていた。ひかりのおどりだ。そんなとき、アナンさんは、へんなことを思いついたものだ。
「そうだ。百年もむかしのひとたちも、五百年、千年のむかしのひとたちも、やっぱり、こうして水浴びをしたものさ。そのころは、人間ばかりではなく、森のけものたちもここに来て、人間と同じように水浴びをしたものだよ。」
 ちかちかはねる水の中で、おシャカさまは、千年のむかしにいらしゃったようになつかしそうにおしゃった。
「けものたちが、いっしょにですって。」
 アナンさんは、びっくりしたなあ。ひょいとひざをのりだした。そのひょうしに三角の波がいくつかおきて、その大きいのが、おシャカさまの鼻の頭に、ぴしゃんと水をはねたものだ。
「くしょん。」
 だから、おシャカさまは、ひとつ、大きなくしゃみをなさって、鼻をなでながらおっしゃった。
「そうだ。そのけものたちの中でも、とりわけ、ルルという鹿は、このガンジス川で水浴びがすきだった。一日でも水浴びを休んだら、まるで一日中ご飯を食べないでいたように、こころも身体もいらいらした。それほどルルは、水浴びがすきだったんだ。
「ルルですって。」
 こんども、とってもふしぎに思ったけれど、アナンさんは二度と三角の波を立てまいと、あわてて両手でひざこぞうをおさえた。 
「ルルは、美しい鹿だった。ルルの毛並みといったら、いつも、しっとりとつゆをふくんだように、一本一本がかがやいて見えて、その栗色とカラシ色のまだらが、ときにはムラサキにも、もえるような紅にも見えた。王さまご自慢のお城の芝生でさえ、あれほど手入れはゆきとどきはしなかったろう。二つの眼は、遠い空のかけらを吸い込んだように青く。青いひとみのおくおくで、ときどき、きらりと何かがひかった。
 なかでも頭のおおしい角は、ムラサキ水晶のようにみごとなつやで、どんなに欲のない人でも、それを見たら自分のものにして、部屋に飾りたくなるにちがいない。
 ルルは、そんな鹿だった。
 あまりにも美しいということは、いつでも悲しいことに出会いやすい。それが悪の種を生む。」
 おシャカさまは、そこまでお話になると、ゆっくり岸にお上がりになって、すこし川上の河原の方を、アナンさんに「そら。」とゆびさされた。
「ええっ。ルルのおはかですって。」
 アナンさんは、もうかけて行った。その木の下のまあるい岩をたしかめにだ。それは、こげ茶色の大きな岩で、もう、まるで黄色いまだらまでぽつぽつある、ルルをそのまま岩にしたようなふしぎな形の岩だった。
「これは、たしかにルルだなあ。」
 アナンさんは、その岩のこげ茶色のはだを、そうっとなでてやりたくなった。
「でも、なぜ、ここに、ルルのおはかがあるのだろう。」
 じいんと手のひらにしみとおるような、つめたい岩のはだ。ルルのおはか。アナンさんは考えた。でも、わからない。
「なあんだ。そうかあ。まず、聞かなくちゃ、だめだなあ。」
 そうだ。おシャカさまは、まえまえから、このルル鹿のお話をみんなになさりたいと思っていて、だれかが、それをお願いするのを待っていらっしゃったにちがいない。おシャカさまのお話は、いつでもそうなんだ。お話を聞くときには、聞き手が自分からすすんで聞きたいと思ってたずねたときが、いちばん、その話をしやすいときだし。身を入れて聞きとれるときなんだ。そうだ。みんなも呼んで、ルル鹿の話をお願いしよう。
 アナンさんは、おシャカさまのお弟子の中でも「聞き手だい一」と、後の世にいわれるくらいに、おシャカさまのお話を、だれよりもたくさんお聞きしたお弟子だった。だからこそ、すぐそこに気がついたのだ。
 黄色い花のこぼれるばかりに咲いた木のかげに、ちびっこのアナンさんとシャリホツと、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、それに、みんなが坐って、こげ茶
色のまあるいルル鹿のおはかと、おシャカさまを見た。
「ルル、おまえは美しい鹿だった。そして、かわいそうなくらい、こころのやさしい鹿だった。」
 おシャカさまは、まるでルルという鹿がそこいいて、いえ、その岩が、生きているルル鹿であるかのように、やさしくおなでになりながらおっしゃった。
「かわいそうなくらい、やさしいですって。」
 アナンさんは、また、わからなくなった。美しいことが悲しいことだということは、アナンさんにもすこうしわかる。でも、こころのやさしいのが、」かわいそうだなんて、まるでわからない。アナンさんはそう思って聞いたのだ。
「アナン。おまえがふしぎに思う気持ちはよくわかる。でも、アナンよ。美しいのが悲しく、こころのやさしいのがかわいそう。それが世の中というものなんだよ。」 
 シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、そして、そのほかのお弟子たち全員が、みんな、こっくりとうなずきあったのに、アナンさんはやっぱりわからないのか、ひとりだけ首をかしげていた。
”美しいのも悪い、やさしいのもいけないだなんて、それでは正しいことがないではないか”


「かわいそうなくらい、やさしいですって。」
 アナンさんは、また、わからなくなった。美しいことが悲しいことだということは、アナンさんにもすこうしわかる。でも、こころのやさしいのが、」かわいそうだなんて、まるでわからない。アナンさんはそう思って聞いたのだ。
「アナン。おまえがふしぎに思う気持ちはよくわかる。でも、アナンよ。美しいのが悲しく、こころのやさしいのがかわいそう。それが世の中というものなんだよ。」 
 シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、そして、そのほかのお弟子たち全員が、みんな、こっくりとうなずきあったのに、アナンさんはやっぱりわからないのか、ひとりだけ首をかしげていた。
”美しいのも悪い、やさしいのもいけないだなんて、それでは正しいことがないではないか”
 黄色い花のこぼれるばかりに咲いた木のかげに、ちびっこのアナンさんとシャリホツとモクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、それに、みんなが、よっこらしょと坐って、こげ茶色のまあるいルルのおはかと、お釈迦さまを見た。
「ルル、おまえは美しい鹿だった。そして、かわいそうなくらい、こころのやさしい鹿だった。」
 お釈迦さまは、まるでルルという鹿がそこにいて、いえ、その岩が、生きているルル鹿であるかのように、やさしくおなでになりながらおっしゃった。
「かわいそうなくらい、やさしいですって。」
 アナンさんはまた、わからなくなった。美しいことが悲しいことだということは、アナンさんにもすこうしわかる。でも、こころのやさしいのが、かわいそうだなんて、まるでアナンさんにはわからない。アナンさんはそう思って聞いたのだ。 
「アナン。おまえがふしぎに思う気持ちはよくわかる。でも、アナンよ。美しいのが悲しく、
こころのやさしいのがかわいそう。それが世の中というものなんだよ。」
 シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、そして、みんなもそれを聞いて、大きくこっくりをしたものだ。シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、そして、みんながうなずきあったのに、アナンさんはやっぱりわからないのか、ひとりだけ首をかしげていた。
”美しいのも悪い、やさしいのもいけないなんて、それでは正しいことがないではないか”
 黄色い花の木の下でますますアナンさんはわからなくなって、自分だけがそれをおかしいと思うのは、自分だけひとり、みんなとちがう、ちがうこころをもって生まれたせいかと、そんなことまで考えた。
「アナン、考えろ。もっと考えろ。きっと、きっと考えればわかる。」
 お釈迦さまとシャリホツとモクレンと、それからみんなのお弟子たちは、静かにアナンさんを見つめると、そう言っているように、うなずいてみせた。

   アナン、がんばれ、考えろ
   アナン、がんばれ、考えろ

 黄色い花の木の枝から黄色い花の黄色い花びらが、いくつかアナンさんをはげますように、くるりひらりと落ちてきた。いつか暑いぎらぎらした日も、遠い西の森のはずれの空に、すこうし傾きかけていた。
 静かな川原の静かな午後。お釈迦さまは、いつのまにか両足をお組みになり、両手をひざの上にお合わせになると、アナンさんといっしょに考えていなさるように、両の眼をうすうくお閉じになった。すると、知らずにアナンさんも、シャリホツ、モクレン、ダイカショウ、ラゴラ、ナンダ、マカカショウ、それから、みんなも同じように手を合わせて眼をつむって、ルル鹿の、こげ茶色の岩のまわりに、しいんと静まりかえっていった。
”美しいことが悲しい、こころのやさしいことがかわいそう。ルルはどうしたといううのだろう”
 しばらくはしんんとしたそのままのけはいが、あたりをつつんでいた。そのうちにアナンさんは自分というものが、なんだか空気のようにがらんとしたもので、身体中がふわっとしてくるいうか、がらんどうにつきぬけていくような、しいんかあんとした気持ちになってきて、こげ茶色の岩も黄色い花も、お釈迦さまもシャリホツも、それから、みんなのお弟子たちも、みんな、すきとおって見えなくなって、自分が自分でなく、千年の昔が今と同じように、つい目の前にやってきたような、そんな気持ちになったのだ。
 すると、ルルという鹿まで姿を見せて、自分をよぶように思えてきて、アナンさんは歩いていたんだ。どこともわからないもやもやした霧の中を。  
 そう、アナンさんが思ったときには、アナンさんの思ったとおりに、ルル鹿の住んでいた千年の昔に、アナンさんは生まれていた。アナンさんは生まれていた。


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